
首里城は過去4回全焼し、再建されていることが、文献資料によりわかっています。
最初に焼けたのが1453年。尚巴志の五男で五代目の王の尚金福が在位4年で死去したあと、王位継承をめぐって金福の子・志魯(しろ)と金福の弟・布里(ふり)が争いを起こし、ともに戦死。
この乱で首里城は全焼しました。被害の程度や再建のいきさつは資料がなく不明ですが、数年後には再建されたとされています。
2度目の全焼は1660年で、失火によるものと見られています。正殿その他が焼け、王宮機能は数年間にわたって、御内原付属の別邸で現在の首里高校敷地内にあった大美御殿に移転を余儀なくされました。王国最大のイベントである冊封も、1663年の尚質王の際は移転先の大美御殿で開催されたようです。当時の王府の財政は非常に苦しいものがあり、再建は思うように捗らなかったようですが、羽地朝秀(向象賢・しょうしょうけん)が摂政に就任し、王国の建て直しを図ったおかげで、11年の年月を経た1671年に、ようやく再建されました。
この時、羽地朝秀自身が「羽地仕置」の中で、「前よりりっぱに仕上がった」と述べた記録があります。
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